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特別企画

双葉町で撚った糸で、復興をつないでいく。

Special対談 Re:touch エグゼクティブプロデューサー 田中 信康浅野撚糸株式会社 浅野 雅己 代表取締役社長

PROFILE

浅野 雅己(あさの まさみ)さん

1960年(昭和35年)、岐阜県生まれ、福島大学教育学部卒業。小・中学校で教員を務めたあと、1987年(昭和62年)、父親が創業した浅野撚糸に入社する。1995年(平成7年)、代表取締役に就任。2013年(平成25年)、第5回ものづくり日本大賞 経済産業大臣賞、2014年(平成26年)、文部科学大臣表彰 科学技術賞、第28回中日産業技術賞 特別奨励賞を受賞する。テレビ東京『カンブリア宮殿』、『ガイアの夜明け』など、テレビ出演も多数あり、構造不況の繊維産業にあって業績拡大を続ける経営手腕に注目が集まっている。
2000年代、繊維メーカーの海外進出で、浅野撚糸は苦境に立たされる。この倒産の危機を救ったのが、綿やウールなどの糸と水溶性の糸を複合撚糸したスーパーZERO。糸が溶けたあとに空間ができ、吸水性や速乾性にすぐれ、ふわふわの肌触りになる。この付加価値の高い糸で作った自社ブランドタオル「エアーかおる」がロングセラーとなり、低迷が続く繊維産業のなかにあって異彩を放つ存在となっている。

岐阜県南西部の長良川と揖斐川に挟まれた水郷地帯。周囲の田園風景に溶け込むように、浅野撚糸の瀟洒な本社が建つ。古民家をリノベーションしたという社屋には、自社ブランドのタオルを販売する直営店やカフェ。2代目社長の浅野雅己さんは、その卓越した経営手腕で倒産寸前だった撚糸工場を立て直し、福島第一原発事故の影響で全町避難の福島県双葉町への進出を決めた。今回は、浅野社長にエアーかおるの開発秘話や双葉町への想いを聞いた。

Movie

体育の先生になりたくて、福島大学に入学。

田中:念願の、浅野撚糸さんです。まずは会社概要からお話しください。

浅野:創業は1967年(昭和42年)、今年で55年になります。父が創業しました。もともと農家のみなさんが藁からなわれた縄を集めて、藁が飛び出ているところをきれいにしたりする縄屋をしていました。

田中:縄屋さんから始まり、社名にもある「撚糸」をスタートなさった。

浅野:藁に代わってビニールとか出てきて、縄屋としてやっていけなくなった時に、ある紡績会社さんが撚糸を外注したいと。撚糸というのは、紡績会社が作った2本の糸を1本に撚り合わす。より強く均一にすることをしていました。当時、すでに繊維産業が衰退期を迎えつつありましたので、父からも跡を継がなくていいといわれていました。私には2つの夢があって、1つは社長になること、1つは体育の先生になること。じゃあ、体育の先生をめざそうと、福島大学に入学しました。

田中:なぜ、福島大学に?

浅野:福島大学には、国立大学で唯一体育の教員養成課程があったんですね。とはいっても、新任から3年間は小学校の教員で、4年目に中学校へ転任して、念願の体育の先生になれました。

田中:岐阜にお戻りになられたのは、その後つまり5年目でしょうか?

浅野:はい。父が地元の撚糸工業組合の理事長をやっていた時に、岐阜県の撚糸業者も最新の機械を入れようということになって、当時としては莫大な借金をして導入しました。それを目の当たりにしていて、たぶん父は跡を継いでほしいんだろうなということと、教員をやっていてもっと広い世界を見てみたいという気持ちがありました

田中:それで、2つ目の夢を追うことになったわけですが、決して平坦でなかったと聞きます。国内繊維産業も衰退をはじめ、かなり厳しい時代に突入していた時期です。

浅野:どんどん紡績の仕事がなくなっていく。超一流の商社や紡績会社と取り引きできるようにはなっていたんですが、そうした企業もどんどん海外へシフトしていって苦しい状態に追い込まれていました。ただ、うちには「複合撚糸」という他社にはない技術がありました。普通は綿と綿、ウールとウールを組み合わせて撚るんですが、ゴムと組み合わせて伸び縮みさせたりとか、あるいは、紙と組み合わせて撚るとかいろいろなことができる機械を、1994年(平成6年)に地元の村田機械さんが開発されました。それを導入して大成功したんですね。協力工場さんにもその機械を買ってもらって、大規模な発注にも対応できるように生産体制を整えていました

田中:付加価値のある糸にできたと。

浅野:ところが、それも長続きしなかった。5年ぐらいですかね。それで、もう廃業するしかなかったんですが、協力工場さんにも借金をしてもらっていたんで、新しいモノづくりをしていこうということになりました。本当に四苦八苦しながら、21世紀、2000年代を迎えました。


会社は確実に倒産するが、みんな無事やって。

田中:さきほど社屋を拝見させていただきました。経営者としてのお父様を尊敬されているのがよくわかりました。どのようなお父上でしたか。

浅野:怖い父だったんですが、とても尊敬していました。会社の経営が苦しい時に、父が仏壇の前で1週間座り込んでいた姿も見ました。1976年(昭和51年)の9.12豪雨の時、長良川の堤防が決壊して、自宅の1階がほぼ水没しました。

田中:私も子供ながらの記憶がよみがえりますが、洪水も多くこの9.12はかなりの被害であったと思います

浅野:電話はつながっていましたので、親戚からどんどん電話がかかってきて、父は笑いながら会社は確実に倒産する。だけど、みんな無事や。心配するなと。私は高校1年でしたが、かっこいいなと思いましたね、あの時の父の笑顔が。憧れましたね。だから、社長になりたいなって

田中:リアリティがあり、迫力があります。なにより、そこからオンリーワンをめざし下請けはしないというご決断をされて、「スーパーZERO」や「エアーかおる」を開発されることになるんですね。

浅野:そうですね。これはやっぱり父の勘っていうのか、1999年(平成11年)に浅野撚糸が最高の売上を計上して、もう2000年には下り坂になってしまいました。父が、今回は構造的なもので、不景気とは違うといっていました。会計士の先生も、もう絶対に廃業だと

田中:お父様のいわれた通りになったと。

浅野:ただ、私を信じて機械を導入してくれた協力工場さんがあったので、父には倒産するまでがんばりたいと。父はわかった。父たちの住む家は残してくれと。それまでの貯えはありましたが、協力会社さんに加工賃に上乗せしてお支払いしていたら、それも1年半ぐらいで底を尽きました

田中:そこで断腸の思いでのリストラを・・・

浅野:それは、父からも指示されていました。当時、30人いた社員を3分の1にしました。協力会社さんへの仕事を優先するために決断しました。協力会社さんのなかには、路頭に迷って夜中にうちの会社に来てみたら、社長室の電灯が点いていたので、それを見てもう少しがんばろうと思い直した方もあったようです。まだ、社長もやる気だなって。私も、諦めなくてよかったと思っています。

田中:人と人のつながりがあったからこそ、みんなでがんばってこられたと感じます。

浅野:そうですね。人として何が正しいかなんでしょうね。当時、サラリーマンにしたら十分すぎる貯金があって、家賃を払うから工場を貸してほしいという方も現れたんですよ。だから、父親にしたら自分の息子に苦労をさせたくないと思ったんでしょうね。商売っていうのはそういうもんや、騙したわけではない。商社が責任を取るから機械を買えっていったんだから、もっと非情にならないとお前が生きていけないぞって

田中:社長のことをご心配なさっていたと感じます。

浅野:ただ、もしうちの父が同じ立場だったら、私と同じことをしたと思います。息子のことだったので、そういったんでしょう。父が亡くなる時に聞きましたが、お前が行き詰まったら全財産を投げ出すつもりだったと

田中:社長にとって、本当に忘れることができないというか、忘れちゃいけないことですね

浅野:この建物も、よく父が残してくれました。うちの父はすごいなと思います。


伸び縮みするタオルを作ろうとしていて。

田中:スーパーZERO、エアーかおるの開発についてお聞かせください。

浅野:やっぱり、うちでしかできないことをやろうと、特許を取り始めました。糸を開発しました。でも、それを私たちはどうしようもできないんです。機屋さんが、ニット屋さんが、それを売ってくれるアパレルさんがその気にならないと。

田中:そこから、最終製品を開発につながる契機につなげられたのですね。

浅野:うちには複合撚糸という技術がありましたので、お湯に溶ける糸で撚糸をしてその糸がお湯で溶けたら、綿100%でも、ウール100%でも伸び縮みすることがわかりました。ポリウレタンがまだない時代でしたので、画期的な糸の開発だといわれていましたので、私たちはそれに懸けることにしました。それが、スーパーZEROです。ただ、糸の開発には成功しましたが、結局、アパレルさんとかがやってくれないと、どうしようもないんですね。

田中:それで、エアーかおるへと続くわけですが、このエピソードも強烈です。

浅野:銀行さんからの紹介で、三重県津市のおぼろタオルさんに行きました。うちもそうでしたが、おぼろタオルさんも倒産寸前でした。私の頭のなかでは、伸び縮みするタオルを作ったら、体に巻きやすいよね、頭に巻きやすいよね、程度のことですよ。それで、伸び縮みするタオルを作ってくれって。タオルは3重構造になっていて、縦糸、横糸、そしてパイル。私は、その横糸にスーパーZEROを使ってくれと依頼しました。

田中:エアーかおるとはコンセプトが異なることで開発まで容易ではなかったと思います。

浅野:そして、3カ月後かな。おぼろタオルさんができましたということで、繊維メーカーさんと一緒に出かけていったら、そのタオルが伸び縮みしなかったんです。おぼろタオルの社長が、伸び縮みしないよ、何で伸び縮みするの?って。スーパーZEROを横糸ではなく、パイルに使ったとそんな依頼はしていないからやり直してほしいといったんですが、おぼろタオルの社長が実はこれができあがった時にみんなで驚いたとすごくボリュームがある。柔らかいまだ実際には使っていないんだが、浅野さんも使ってみてくれといったんですね。タオルのプロが、これはかつてない風合いだからおもしろいと、まだエアーかおるではないのですが、そういう不思議なタオルができました

田中:今日はざっとお話いただきましたが、このキャッチボールが永遠に続いたんですよね

浅野:ええ、もう。本生産に入った時が、すごく難しかったですね。これまでに2つの山場があって、まず実際に量産できるかどうかの山場と、もう1つは実際に売れるかどうかの山場。この2つの大きな壁があって、実際にできなければ売ることもできない。『カンブリア宮殿』の再現VTRでも、このストーリーがおもしろいということでね。

田中:確かに、とてもユニークですが、ザリアルはかなりのご苦労も、不安の連続でもあったと思います。


女房が、自己破産ぐらいは嫁いだ時から覚悟していると。

浅野:それが、なかなかできなかったんですよ。もう何百回とやってもらったんじゃないかな。すごく無駄なことをやっていただいて、最終的には、おぼろタオルさんが降りるという話になって。私の目の前でもやってくれたんですが、すぐに機械が止まってしまうんですね。おぼろタオルさんでの私の評判も悪くて、いつもいい加減なことばかりいってと。職人さんにあいさつしても、返事をしてもらえないくらいでしたよ。ところが、おぼろタオルの社長がもう降りるといった時に、その職人さんがこのタオルがいいということはみんなわかっている。やらなあかんやろっていってくれたんですね。うれしかったですよ。でも、おぼろタオルの社長が降りるといっているんで、最後に社長室に行って、長い間お世話になりましたと。

田中:えっ、それで終わろうとしたということですね?!

浅野:その時に、おぼろタオルの社長がこれからどうする?って聞くので、この足で今治タオルへ行って、必ず成功させるといったんですね。本当にそれくらい追い込まれていましたし、借金もあって抜き差しならない状態でした。以前、ある大学で途中で迷いませんでしたかと聞かれたことがありますが、迷うのは貯金がある時なんですよ貯金がある時は立ち止まることができる。もう借金に入ったら迷いませんよ銀行さんに夢を語ってお金を借りるだけで、立ち止まった段階で自己破産は間違いないですから。うちの家内も、自己破産ぐらいはここに嫁いできた時から覚悟してるわよ、みたいな女房だったんで助かりました。

田中:いやあ、奥さまが振り切るくらい、吹っ切れていらっしゃる

浅野:おぼろタオルの社長も、私の迫力に完全に押されていましたね。絶対に成功させる。おぼろタオルさんでノウハウを学んだ。どこに原因があるかもわかっている。ここまでかかった費用は返すからと。すると、おぼろタオルの社長が、だれが降りるっていった。今日は、もうやらないといっただけやと

田中:すごい迫力です。本当の話なのですから。でお聞きすれば、おぼろタオルの社長は降りるつもりであったとのこと?! 浅野社長が目を据えてにらみつけられ、やっぱり浅野社長についていかなあかんぞ?!みたいになったと聞きました。もう驚きでしかありません。

浅野:最下位のタオルメーカーが、今では日本有数になりましたよ。追い込まれていましたから。あとは、人のためだから。私利私欲だけだとできない。協力工場さんを助けないといけない、どんなことをしてもと。やっぱり、利他ですよ

田中:それは、社長がリストラをなさったご経験があったからこそのお言葉じゃないかと

浅野:そうですね。『カンブリア宮殿』でも、そこはカットされなかったですね。私はカリスマ経営者なんて絶対に違いますよって、村上さんにも小池さんにもいいました。私は人を切ってるから、ある意味これは一生消えない。うちで30年働いてくれた工場長夫婦を、息子さんだけ残して一番最初に切りました。一番切りにくいところをね。その息子さんは、今うちの工場のトップですよ。

田中:社長が目をかけられて、しっかりと育ててこられたからこその話だと思います。

浅野:その時の工場長の奥さんには、数年間、口を利いてもらえなかったですね。これも1つの歴史ですよ。

田中:私はSDGsで全国を回っているんですが、結論として伝えているのは人ですよと。「企業は人なり」とよくいわれますが、これを愚直にやっているところが最後は勝つので。人をどうやって育てていくか、どうやって経営者の理念を植えつけていくか、そして、どうやって次の世代に受け継いでいくかだと思います。

福島第一原発事故の影響で全町避難が続いている福島県双葉町。浅野撚糸が、この復興産業拠点へ進出することを決め、2021年11月には新工場の起工式を行っている。自社ブランドを販売するショップやカフェを併設する「浅野撚糸双葉スーパーゼロミル」(仮称)は、浅野撚糸にとっても文字通り“ゼロ”からの出発となる。双葉町と共同開発したタオルマフラー「ダキシメテフタバ」を早々にリリースするなど、浅野撚糸の新たな挑戦が始まった。

父は、人のためなら徹底的にやれと。

浅野:素材のリサイクルはもちろん大事。日本人の「もったいない」っていうのも大事なんですが、やっぱり地球をサステナブルにしていく一番大きなポイントって、利他ですよ。だから、私たちは福島県の双葉町でそれを発信していく。全社員にいってるのは、人のためにっていう精神でやっていくことが持続可能な会社になるし、私たちが双葉町に行くのはそのためなんだと

田中:福島大学のご出身だからというだけではないんですね。

浅野:もちろんそれもありましたが、何もできない自分が情けない、という自責の念に駆られて。たまたま、「繊維の将来を考える会」で何十万社のなかから21社に選ばれて、本当に繊維産業の将来をどうするか真剣に議論するメンバーに入れていただいたんですね。

田中:すばらしい。

浅野:その会議で、いつも私の隣の席に双葉町の企業誘致担当の課長さんがいて、浅野さん頼むわって。ぶつぶつと。それもご縁なのでね。福島大学を出ていなければ、2つ返事はしなかっただろうなとは思いますが。それで、父がまだ意識があったので、こんな話があるんだけどって聞いてみたんですよ。

田中:お父様は、賛成でしたか? 反対でしたか?

浅野:何もしなかったら、お前は幸せな人生やろな、みたいな。ショップも成功したし。それは、お前だけでは判断できないので、家内や長男がやるかどうか。お前の代では起承転結できないぞ。だから、そこはお前だけで決めるなと。ただ、俺だったらやるなって、父がいったんですよ。それが、遺言みたいになりました。

田中:お父さまの想いを受け継がれているんですね。

浅野:わがままな父でしたよ。でも、芯はぶれなかったかな。人のためやったら徹底的にやれと。実際に、うちのおじいちゃんやおばあちゃんも、知らない人をよく家に泊めていましたね。それはやっぱりDNAですね。

田中:浅野撚糸さんを語るに欠かせないお話です。このDNAが今も脈々と流れていらっしゃる。

浅野:人間が一番強いのは、私利私欲がない時ですよ。双葉町の町長も、国や県の担当者も、まったく私利私欲がない。とんでもないまちですね、双葉町は。

田中:これは浅野撚糸さんとして、かなりの投資になりますね。

浅野:もちろん不安ですが、使命感みたいなものが、徐々に芽生えてきています。まだ、町民のみなさんの一時立入が始まったばかりのところに、人口1万人のまちをつくる、観光客を年間300万人呼ぶって、町長と話しているんですよ

田中:“ゼロ”からのスタートですね。浅野撚糸さんが双葉町に建設を予定されている「浅野撚糸双葉スーパーゼロミル」(仮称)の完成予想図を見ると、屋上に「SUPER ZERO」という大きなサインがあって、その想いが込められているのがよくわかります。しかしこれは実に奇抜ですね!さすが浅野社長!

浅野:ロサンゼルスに行くと、丘陵に「HOLLYWOOD」って掲出してあるでしょう? あれと同じぐらいの大きさなんですよ。うちの屋外看板は、実は、地上からは見られないんです。

田中:相当な大きさ?!だから屋内からも見えないんですね。

浅野:でも、双葉町の復興が紹介される時、ドローンからの映像が必ず流される。Googleでも確認できる

田中:間違いないですね。これは完全なプロモーション施策だ!すごいや。


双葉町には、すごくポテンシャルを感じる。

浅野:双葉町には、すごくポテンシャルを感じています。だから、いつも町長にいっているんですが、復興をお手伝いするというのもあります。ただ、私は経営者なので、絶対に軌道に乗せるって。うちが駄目になったら、双葉町にもご迷惑をかけることになりますから。

田中:素晴らしいご配慮で。何分、自分たち優先の考え方になりがちなところ、ここも浅野社長ならではのご配慮ですね。

浅野:それが、町長もうれしいみたいで。双葉町にはすごく可能性がある、そして、世界に発信できる。私は総理官邸の次だと思いますよって。福島県知事とも会って話をしたんですが、双葉町から子どもたちの教育を発信したいと、それが夢だって。あそこからしか発信できないことがあるんだと。浅野撚糸双葉スーパーゼロミル(仮称)に来たら、何でこんなことで悩んでいたんだろうと思うようにしようと。ただ、人が戻ってくる、人口が増える、工場ができる、だけじゃないのが、双葉町なんですよ。

田中:まちづくりを丸ごとブランディングする戦略ですね。双葉町で復興が始まったって視察に行ったら、浅野撚糸さんがいらっしゃると。

浅野:うちが呼び水になったって、町長がいっていましたよ。うちのほかにも、7、8社の進出が決まっているそうです。

田中:すごい。

浅野:うちが双葉町に行くことが決まって、知事も涙が出たって。すごいことが起きてますよ。今、本当に

田中:双葉町と共同開発されたタオルマフラーの「ダキシメテフタバ」というネーミングもすてきですね。ここにも地域ブランディングの妙を感じます

浅野:4月11日、全15段の新聞広告を出す予定でした。この町長のコメントにある「ファイティングポーズ」って、私が考えたんですよ。ただ、4月8日に緊急事態宣言が発出されてしまって。4月11日って、ガッツポーズの日でなんですよ。しかも、私の誕生日

田中:すごくご縁を感じる日になりましたね。絶対に忘れない。

浅野:私の還暦の誕生日で、生まれ変わりの日。何か私らしいなと思って。ここで式典をやる予定だったんですが、すべてキャンセル。結局、6月11日に新聞広告をやって、町長にめちゃめちゃ褒めてもらってね。あの言葉、かっこいい、かっこいいって。

田中:まさに、戦う姿勢を忘れない、ですね。


双葉町がどうとかじゃなくて、あの人たちと仕事がしたい。

浅野:でも、この1年前は町長に元気がなかったみたいで。その時に、国も応援するから、町長に立ち上がってくれと。それで、うちが行くことになって、勇気が湧いてきたと。今は、めちゃめちゃ忙しいですよ。そんななかでも、私たちが双葉町に行くと、必ず会いにきてくれます

田中:そういう信頼関係を築き上げられたのもありますが、双葉町を絶対に復興するんだという堅い絆ですね。

浅野:国や県の担当者もみんなやる気で、これで成功しないわけがない

田中:すばらしい。

浅野:東日本大震災の被災地を12カ所見て回って、町長とお会いしたのは双葉町だけでした。まだコロナ禍の前だったんで懇親会とかあって、そこで町長と最初にしたのがプロレスの話。吉村道明って知っていますか?って。そこから、話が弾んで。こんな話をしたのは、あんたが初めてやって

田中:私もギリギリわかります(笑)

浅野:それで、帰りの車のなかからでしたかね、町長に電話して、だったら行くわってみたいな。

田中:うわ、すごい話。それを肌で感じられたと。

浅野:その時、家内もいたしね。双葉町がどうとかじゃなくて、あの人たちと仕事がしたいから。あの人たちとだったらやれるなみたいな。何か一緒に双葉町をつくり直したいな、みたいな。今でも、それは想っていますが

田中:今日はいろいろとお伺いしましたが、もう社長から感じる人間力がとてつもないです。


うちの会社は学校みたいと、社員がいっている。

浅野撚糸では、SDGsへの取り組みも強化している。再生原料を含む生糸からスーパーZEROを撚糸する再生糸の製造を始めた。寝具メーカーのシーツ製造工程で発生する端材を活用した再生原料を40%含んだ糸を撚糸。また、浅野撚糸の本社に隣接する直営店「エアーかおる本丸」で、エアーかおるシリーズの使用済みタオルを回収している。こうしたタオルも綿に戻して再生原料として再利用する予定で、将来的にはブランド化することをめざしている。

田中:ところで、こうやって住空間をリノベーションした社屋にされ、社員のみなさんが働きやすい環境にされているのは、社長に強い想いがあられるんですよね

浅野:そうですね。SDGsもその1つなんですが、私がずっと夢だったのは、新卒の若い子たちにぜひ浅野撚糸に入社してもらいたい。昨年、初めて高卒を4人採用しました。松井守男さんという有名な洋画家がいらっしゃって、フランスの芸術文化勲章やレジオンドヌール勲章などを受章されているんですね。フランスのコルシカ島に住まれているので、日本であまり知られていないんですが。この松井先生に、双葉町にあなたの絵画を残しませんか?って聞いたら、浅野撚糸の双葉スーパーゼロミルに描いてもいいよってことになって。そこで、浅野撚糸がどんな会社かとか、社長はどんな人柄か知りたかったと、ここに来られました。その時に、うちの若い女性社員を見られて、美人ぞろいだって驚かれていましたよ。昨年の5月に、松井先生が双葉町に行かれて、地元の新聞社がインタビューしたいとか、大騒動になりましたよ。うちに描いていただく絵画も、幅10メートル、高さ1.4メートルって、私が勝手に決めてしまって。そしたら、松井先生がうちの絵画をタオル地に描くとか、双葉町にアトリエをつくりたいとかいって、とても盛り上がったんですよ

田中:社長のお人柄がよく表れています。ロンブーの淳さんがテレビの取材で来られた時も、台本通りにやらずに淳さんから、いい会社ですねって、学校みたいだって言われたと聞きました

浅野:うちの社員が学校みたいだっていっているらしいんです。今の若い子たちは安定した仕事とかではなくて、倒産しそうだった中小企業が復活して、東日本大震災の被災地に進出しようとしている。何か夢があって、そういった会社で働きたいというのがあるんですね。そういう理由で、うちに入社してくれるんですよ。

田中:社屋に入った時に、浅野撚糸さんの社風が、何となくわかりました。

浅野:松井先生もそういっていました。

田中:いや、本当にびっくりしますよ。

浅野:近い将来には、若い子たちにそれぞれの部署を任せて、自分たちで運営させたいんです。来月、福島県の高校と大学で授業をやらせていただくんですが、そういったことを教えていきたい。うちはアメーバ会議っていうのをやっていて、全部の部署で毎月ゲストを呼んで勉強会をしていますよ。

田中:このカフェもですか?

浅野:はい。ここも、若い子がそろばんはじくようになりますよ。

田中:おお、すごい。

浅野:だから、この子のノートがすごいですよ。社長が20万円っていって、無理だと思ったんですが、いけそうですって。

田中:私も、高校生にSTEAM教育の一環で金融経済教育を教えているのですが、生徒から要望があって、金融を知らないと社会に出た時に行き詰まるって言うのです。そこがリクエストの発端で。

浅野:そうですよね。社長や上司が細かいところまでマネジメントするのではなく、部署ごとのグループがそれぞれ意思を持てるようにしたい。ティール組織の前段階のようなことをしたいですね

田中:それが本当に実現できるといいですね。

浅野:いろいろなところから工場見学に来られても、浅野撚糸では若い子がみんな応対するって、名物になっていますよ。

田中:いや、しかし社長の発想がぶっ飛んでいます。

浅野:ぶっ飛ばないと、もう日本は駄目ですよ。AIは過去の成功を計算してやるので、AIには大きな期待はできない。ちょっと非常識ぐらいが、一番の褒め言葉なんですよ

田中:すごい社長だ。本当にすごい会社です。本日はありがとうございました。

Re:touch Point!

双葉町で撚られるストーリーテリング。とても楽しみでならない。

Re:touch
エグゼクティブプロデューサー
田中 信康
浅野社長が歩んでこられた道のりは、新聞やテレビで拝見していたものの、ダイレクトでお伺いすると、その迫力に圧倒される。浅野撚糸さんでは、繊維産業の構造不況が直撃した倒産の危機から、スーパーZEROやエアーかおるの開発で、繊維産業の寵児と呼ばれるようになった。そこには、実に人間味のある開発秘話がある。
福島第一原発事故で全町避難が続いている福島県双葉町の復興産業拠点への進出。その決定までのいくつかの逸話には、第2章は始まったばかりで、これからどんなストーリーが撚られていくのか。「人間は私利私欲がない時が一番強い」。今、双葉町にはこんな人たちが集結している。
浅野撚糸の創業者であるお父様を、かっこよかった。と尊敬されている浅野社長。病床のお父様に双葉町のことを相談した時、「人のためなら徹底的にやれ!」と背中を押された。今となっては遺言になったが、浅野撚糸さんで未来永劫、この言葉が受け継がれていくことは、私でなくても容易に想像できる。なんともどすごい会社がココ(岐阜)にある。